# なぜ生命科学専攻が、コンピュータサイエンスに行き着くのか
## 自然が好きだった
子どものころ、虫を観察するのが好きだった。特にアリジゴクが面白かった。後退しながらすり鉢状の巣を掘っていくあの動き、単純な動作の繰り返しが精巧なトラップを作り上げる。
興味の根っこにあったのは「人間が設計していないシステム」への関心だったと、今になって思う。誰も命令していないのに、アリはコロニーを維持する。誰も指示していないのに、魚は群れを作る。そういうものが面白かった。

## コンピュータも同じ理由で好きだった
コンピュータに触れ始めたとき、直感的に「あ、これも同じだ」と思った。
プログラムを書きさえすれば、あとは手を下さなくても動く。自分が設計したルールの上で、何かが勝手に動いている。人間の手によって作られたシステムなのに、動かしている間は人間の意図が入らない。その感覚が、虫の観察と地続きに感じられた。
## 学問にしようとすると、モデルが必要になる
生態学でも生化学でも、自然をそのまま扱うことはできない。観察した現象を記述するために、人間はモデルを作る。微分方程式で個体数の変動を表したり、グラフ構造でタンパク質の相互作用を表したりする。
環境科学になると、対象が人間社会まで広がる。自然と人間社会を同じ枠組みで扱おうとすると、モデルはより複雑になる。そうして行き着く先が複雑系だった。
複雑系をコンピュータサイエンスの文脈で突き詰めると、人工生命という分野が現れる。ライフゲームやチューリングパターンは、単純なルールから驚くほど複雑な模様や振る舞いを生み出す。そこには設計者の意図した「解」なんてない。ルールがあって、観察するだけだ。
だから自分は、結果より過程に興味がある。ライフゲームが最終的に何を生み出すかより、どう変化していくかが面白い。目的地を決めずに、動きを見ている感じだ。
## 生成AIも、自分にとってはその延長にある
生成AI、特にLLMに初めて触れたとき、研究者としての視点で見れば研究対象がインターネット上のテキストデータになっただけだと感じた。
だからこそ、LLMが示す偏りや傾向は、インターネットそのものの偏りや傾向でもある。特定の言語が強く、特定の文化的文脈が前提になっていて、ノイズも含んでいる。それは欠陥ではなく、モデルとしての正直な反映だと思っている。
## 研究の価値は否定できない
生成AIをめぐる議論はさまざまあるが、研究そのものの価値を否定することは自分にはできない。
ルールを作って振る舞いを観察する。そこから何かを発見しようとする営みは、虫を採っていた子どもの頃から自分の中で変わっていない。生成AIの研究も、複雑系の研究も、その延長線上にある。
ただ、社会実装の話になると少し違う話になってくる。研究対象として面白いモデルであることと、あらゆる場面に適用すべきツールであることは別だ。そこは今でも慎重に考えている。
特に創作の文脈では、難しい問題をはらんでいると思っている。既存の作品と似たものを意図的に出すのが問題なのは、誰でも納得する。では、それを避けようとしたら?既存作品を十分に分析しないと、そもそも何が「似ている」のかすら判断できない。アンチテーゼを作ろうとしても、まず参照元を深く読み込まなければならない。
共通部分があれば問題になり、共通部分がないように徹底したとしても、その過程での分析が問われる。どちらに転んでも前進できないとすれば、創作における参照・応答・対話という行為そのものが萎縮する。それは文化にとってかなり大きな損失だと思う。